インドの生活


生産故紙工学科4年 加 藤 忠 仁

1.インドで迎えてくれたもの
 バンコクを発って約二時間、視界に入ってきた風景は、いくつもの濁った蛇行してる川と、青々
と繁った木々、そして、どんよりとした空と、果てしなく続く大地だった。
 カルカッタ空港に着くと、銃を持つ警官がたくさん構えており、ターミナルビルは、茶色の古ぼ
けた建物だった。さて、空港でタクシーに乗ろうとした時、濁った白目をしたボサボサの髪をして
十日間ぐらい洗濯していないような服を着た近寄り難い風貌の男の子が近寄って釆て、何言か言っ
ていたが、自分らは無視していた。そして荷物をトラソクに積もうとした時、その子が「OK、O
K」と言いながら荷物を奪い取るようにして頼んでしまった。すると、ニコッと笑って「チップ、
チップ」と手を差し出してきた。まあ、手伝ってくれたんだから仕方ないなと思って、チップを渡
した。きっとこの少年は、チップで生計を立てているのだろう。
 そして、ホテルに向かうタクシーの中から、腰まきとシャツー枚しか着ていない人々が、荷物を
頭上に乗せて素足で歩いていたり、人が重そうな荷物を引いていたり、数人が道端の井戸で体を洗
っていたり、濁った池で洗い物をしていた。そのためか、のんびりと歩いている牛と、死んだよう
に昼寝をしている犬が、すごく自然に思えた。また、人の数の割りには家屋の数が少ないような気
がした。自分らは、いつの間にか、そんな光景に目を奪われ、自然な沈黙に追いやられていた。

2. 民 族
 インドは、多民族国家である。デカソ高原に住む原住民、アッサム地方に住むモソゴロイド、パ
ンジャープ地方に住むイソドアーリア人、南部に住むタミル人などが主な民族だが、それらの混血
民族もいるので、ものすごい多民族国家である。そして、ダージリンで見かけたチベット系の人々
は、思わず声をかけたくなったほど日本人そっくりであった。
 また、町を歩いて感じたことだが、女性が大変少ないことである。九割近くが男性だった。これ
は、男性と一緒でなくては、外出してはいけないという習慣があるためである。女学生などは、な
るべく複数で行動しているようだった。そのためか、町にはあまり華やかさが感じられなかった。
 しかし、外出する時は必ずお化粧しているようだった。サリーという華やかな民族衣装を着て、
口紅を付け、指輪(足の中指にもはめている)、イヤリングを付け、いくつものブレスレットを付
け、眉間にまで黒くて丸いアクセサリーを付けている。そしてほとんどがロソグヘアーであるが、
後ろで束ねていた。また既婚者は、髪の分けぎわに、赤い色を塗っている。女性は、自分の豊かさ
を表現するために、一生懸命おしゃれしているようだ。
 男性は、約七割ぐらいの人々が髭をたくわえていた。これは、髭が強さの象徴の印だからである。
そして、ズポンは、暑さのためかほとんどは裾が広がったのをはいており、文化人の象徴の印であ
るボールペンを、大切そうに胸ポケットにはさんでいた。

3.言 語
 様々な民族がいるように、インドには様々な言語がある。公用語は、ヒソディー語と英語であ・
が、各州ごとにも共通の言語があるので、こまかく分ければ全部で一万五千言語以上もあるそうつ
 そして、学校では、英語かヒンディー語を使い、家族や友人とは州の言語などを使っていた。ノ
チィア家でも、母親が、7才と3才になる子どもに「EGG、エッグ」と英語を教えていた。そ〈
ため、普通の人なら、英語とヒンディ一語と州の共通語の3言語、電車の中で会った大学生は、
言語も話せると言っていた。これは、多言語国家のイソドだからこのようにいくつもの言語が話せ
るのだろう。
 しかし、教育水準が低いため文旨率は約70ヲらもあります。このため、英語のホテルカードを見せ
て「ここまで行ってくれ」と言っても「わからない」と言われる場合の方が多かった。

4.習 慣
 まずインドで一番注意しなくてはいけないのは、手の使いわけであると思う。右手は、食べ物を
食べたり、握手をする、きれいな手であり、左手は、トイレで使うきたない手という固定感念がある
るのである。インド人には握手の習慣もあるし、トイレには、紙は置いてなく、左側に蛇口と瓶が
あるだけであった。
 また、インドには、「ありがとう」、「ごめんなさい」を言う習慣がないのである。これは、自
分がしてもらった親切を、今度、他の人にしてやればいいという考えがあるためである。この習慣
を理解してやらないと、インド人をあまり好きになれないだろう。そして理解していれば、この方
が、ロベたの自分らには、得する時もあった。
 そして、他人の物は自分のもの、自分の物も他人の物といった、共同体的な考えがあるようであ
った。そのため、乞食でも堂々と「金くれ」と手を出してくるし、新開などの回し読みもあった。
この習慣がインドのいい面でもあり、人に頼るという悪い面でもあると思う。

5.食生活
 インドの主食は、長さ1cmぐらいの三日月型をした外米と、チャパティーといって、小麦粉を練
って洗いた具のないお好み焼のようなものであり、それらに香辛科のたくさん効いたカリー(カレー)
などを付けて食べるのである。また、ポテト料理や、揚げ物(天ぷらに似ている)もよく食ペでい
た。料理は全て辛味であり、甘い物といえば、お菓子とチャイ(紅茶)だけで、塩ばい食べ物は、
ほとんどなかった。
 チャイとは、砂糖とミルクのたくさん入った紅茶で、日本人がお茶を飲む感覚でインド人もチャ
イを飲んでいた。そして、インド人は、この甘いチャイで疲れを取り、辛い食べ物で暑さをしのい
でいるようだった。
 また、インドでは、肉類、魚類が大変高価であった。これは、冷凍設備が普及していないことと、
宗教的問題(人口の83飽を占めるヒンズー教徒の菜食主義)を通して行くという意図もあるのでは
ないかと思う。肉類には、チキンと、マトンしかなく、牛は、町にはたくさんいたが、神様から
授け物という信仰があるのでメニューにはない。
 そして、酒も肉と同様に宗教問題があり、貴重なものであるが、生活にゆとりのある人などは、
酒も飲むし、肉も食べたりするようであった。自分らも、肉、魚、ビール、ウイスキーと味わったどれも
みんな美しかった。
 また、酒に少し関係するもので、麻薬が州にもよるが、公認されているのである。値段も酒より
ずっと安いし、感じ方も酒より強いので、肉体労働者などには常用者が多いようであった。
 くだものは、新鮮で豊富にあった。オレンジ、バナナ、トマト、グアパ、ぶどうなどが道端や駅のホーム
で盛んに売買されていた。またビスケットも豊富で美しかった。そして、水やコーラを飲む時には、
コップやビンにロを付けないで飲む習慣もあります。そのため、コップは、いつも内側しか洗っていなかった。
カップでコーヒーなどを飲む場合には、受け皿にあけてからすすっていた人もいた。辛い物を食べている
わりには、ネコ舌の人が多いようである。

オレソジ (4個)    1Rs
バナナ (4本)     1Rs
チャイ(紅茶)     0.5Rs
ビスケット(12枚)  1.5Rs
ゆで玉          0.7Rs
コーラ (200cc)    2Rs
ビール (大ビソ)   15Rs
ウイスキー        90Rs
チキソフライドライス   11Rs
マトンフライドライス   10Rs
ポテト料理(1食)   5Rs
揚げ物 (1食)    2Rs
バン(麻薬)    0.25Rs
ハシシー (1g)   5Rs
映画   (1本)   5Rs
ホテル (中級)  25Rs
※ R:ルピー 1Rs=23円
  月平均収入 200Rs


6.娯 楽
 イソドの娯楽といえばやはり映画である。年間200本という世界一の製作数を誇り、町には、映画館がっきものと
いった感じも受けた。そして、映画館だけは、ネオンが付いているほど近代的な建物で、いつも人が群がっていた。
ある町では、夜に、街道映画を行っていたほどである。
 自分らも、教本見たが、正義が悪から女性を守るといったストーリーで、格闘、ダンス、ミュージックをうまく取
り入れた、ワンパターンの映画ばかりだった。それでもイソド人は、声を上げたり、手をたたきな
がら見入っていた。やはり、現在のインドは、日本の戦後と同様に、ラジオがあってもテレビが普
及していないから映画の人気はあるようである。
 また、宝くじも人気があるようである。ちょっとした町にはいくつも宝くじの売店があり、毎週
10万R(230万円)を夢みて、1枚1Rのくじを2〜3杖買う人が多いようだ。

7.インド人の心
 工場見学で『鉄の町』ルールケラに行った時のことである。国営のスチール工場の門の前から写
真を撮ったら、そこの労働者の人が自分らに向かって手招きをしているので「これはしめた!工場
のことを聞いてやろう」と思いながら何の疑問も持たずに近づいて行った。そうしたら何と開口一
番「ここで写真を撮るのは禁止されている。」と言われた。思わず「しまった。」と思った。なぜなら
イソドでは、工場、空港などの主要機関では、警備隊がいるほど秘密主義にしているのであった。
自分らは、素直に「すみません。知りませんでした。」と謝ったが、相手の態度は官僚的であった。
そして、何と警備兵を呼んでしまった。それでも、形式的なことで済むだろうと予想していたが、
その期待は、あっけなく裏切られ、警備隊の事務所まで連行され、立派な髭をたくわえた、無愛想
な隊長らしき人の前に座わらされ、いろいろ調べられたが、自分らもまたいい研究をさせてもらった
た。
 それは、上下閑係がまるで主人と召使いのようであったことだ。隊長は、すぐ後ろの窓を開ける
のも、メモ用紙がない時、チャイが飲みたい時も、全て横に置いてあるベルを押して、用務係の人
を呼びつけて命令するだけで全然自分で動こうとはしなかった。これは、カースト制度の専業分離
の現れだろう。そして、カースト制度を感じたのは、この場だけであった。これは、カースト制度
による差別を法律で禁止しているからであろう。しかし、自分にできる範朗のことは自分でやって
もいいんじゃないかと思った。
 また、そんな上下関係でも、相手の物は自分のものといった考えは実存していた。部下でも隊長
のタバコを断りもしないで、自分の物のように気兼ねなく吸っていたし、自分らにもすすめてくれ
たほどである。それでも隊長は、気にしている様子は全くなかった。習慣とは何と強いものだろう

8.インドで輝くもの
 質素で古ぼけたイソド中で、古代遺跡だけは立派であった。デリー城、アグラ城、タージマハル
など世界を代表する物がいくつもある。中でもタージマハルは、全て大理石で造られており、当時
の技術水準の高さと国王の豊かさを疑いたくなるぐらい立派な建物であった。また、その反面、現
在のイソドと比較してみると、その差はあまりにも大きく、長い歴史の中での外部勢力との戦いの
すさまじさと、犠牲の大きさの象徴のように建っていた。現在のイソドは、政府直轄(ニューデリ
ー、ボソペイ、ゴア、マドラス)を除けば、全ての町には、植民地時代(37年前)に建てられた5
階建て程度の西洋風の建物が今なお当時の面影を残しながら建っているのである。
 そんな、インドに住む人々の心の柱は何といっても信仰だと思う。勉強、精神、闘い、商売の4
つの神様がいて、店には商売の神様、警察には、闘いの神様が神棚に飾られており、金が入ってき
た時や、出勤時に、丁寧に御祈りしていた。
 また、ガンジス川は、ヒソディー教徒にとってこの世で最も聖なる川である。川辺の板の上で、
多くの人々が、手を合わせて御祈りしながら水で身を清めていた。そして、ガソジス川を渡る列車
の上からも御祈りしていた人が印象深かった。この信仰心があるからこそ、昔と変わらぬ文化を強
い忍耐カで維持してこれたのだと思う。また自分には信仰こそがインド人の全てだとも思えた。

9.まとめ
 自分がインドで一番見たかったのは貧困であったが、季節的に最高の時期であったため、想像し
ていたような飢餓状態に接しられなかったことが、残念でもあり、幸いであったとも思う。
 しかし、そんな最高の季節でも、スラム街は人でいっぱいだった。小さくても家がある人はまだ
良く、特に貧しい家族などは、、道端の壁やへいから歩道に向けて板やビニールを張り、その下で生
活しているのである。あるいは、書い気侯状態が多いため戸外で寝るのも普通らしく、寒くても、
毛布をかぶって道端に寝ている人もたくさんいた。そして、ゴミ捨て場で、ガラスや犬と一緒にな
って食べ物を探していたり、人からお金や食べ物を恵んでもらっていた人もいた。服装は、腰まき
1枚だけで、近くの井戸が生活のささえ場所のような感じであった。
 しかし、そんな生活環境の彼らは、そんなに落ち込んでいなかった。何か、その時々が楽しさを
求めて生きているようにも感じられた。いい変えれば、『考えてもどうにもならない!それならば
他人と神様に頼ろう。』といった感じであった。これはやはり、イソド人は、厳しい、雨季、乾気の
自然の中で生活してきたことにより、彼らは『あきらめることと、耐えること』を身につけている
のではないだろうか。
 では、どうしたらインドの生活水準を向上できるかと考えてみると、南北問題一般的に言われて
いるようなことでは通用しないと思う。そこで観光事業ということに力を入れてほしいと考える。
立派な遺跡、発達している交通網、独特な異文化、たくさんあるホテル、安い物価、英語が公用語
といった利点をもっと利用したらいいと思う。そうすれば、観光収入は見込まれるし、公共事業に
もカを入れるようになり、労働の場が増え少しは金が動くのではないかと考える。
 そうして、子供のうちから、店番や、くつみがきや、物売りなどの仕事をしなくても生活できる
ようになり、教育を受けられるようになればいいと思う。
 最後に、出国手続きの際に一緒になった青年の『これで3回目だったのに、インドのことが全然
わからない』と言った言葉が印象的だった。確かに、我々先進工業国がたくましい男性なら、イン
ドは、魅力をたくさん秘めたつかみどころのない女性のように思えた。