6.移住研と学移連 
6-1日本学生海外移住連盟
 この活動史の各所に登場してくる「学移連」(日本学生海外移住連盟)について、駒井 明(昭和45年入学・生産機械、第21期学移連委員長…後述)から貴重な資料を提供頂いた。この資料を基に、その概要を記載しておきたい。
日本学生海外移住連盟(以下学移連という)は、昭和30年(1955年)に結成され、当時の外務省の外郭団体であった移住事業団の下にあった。東京農業大学海外移住研究部、拓殖大学海外移住研究会、早稲田大学海外移住研究会、日本大学海外研究会、三重大学海外移住問題研究会、北海道大学海外移住研究会等々、全国60大学の海外関係サークル1万人の学生によって組織されていた(「アマゾンの日本人」・吉永正義著、発行者中馬 修、1965年3月31日刊の記述および「連盟案内」による)。

(1)学移連設立趣意書

 日本の海外への発展とその維持とは単に国内問題とし取扱われるべきではなく、国際的視野のもとに世界人類、特に次の世代を担う学生の連繋協力によって解決しなければならない。
 それは民族の国際的交流、移動が世界各国に対し直接、間接多くの影響を及ぼし、又世界各国の人口支持力並びに生活程度の消長がその国の政治経済を動かして国際関係に多大の影響を及ぼすからである。
 従って、今後に於ける海外発展の正しい解決は各国民、特に学生間に於ける相互の諒睦、そして之に伴う知的交流文化の配分等につき、協力一致するとき初めて見いだされる。
 新しい日本建設に当たり我々は斯くの如き視野に立ちつつ海外問題の研究とその解決とに努力し、且つ国際友愛精神による国際的寄与への第一歩を強く踏み出さんと欲するものであります。
 自然には国境がなく、人類の間に本来何等の確執もあるべき筈はない。否全人類総てが相携えその生活の向上と文化の建設とに努力すべき責務を有するものであります。
 然るに海外移住に関する研究とその推進とに関し、次の世代を背負う若き学生間に於いて、従来その全国的提携、協力が極めて欠ける点の多かったことに鑑み、茲に各大学有志の賛成を得て世界平和を祈念しつつ、日本学生海外移住連盟を設立せんとするものであります。(日本学生海外移住連盟発行・「連盟案内」より)

※連盟案内には、この設立趣意書に対して、次のような追加説明が記載されています。

《追加説明》

 上記の文章は設立時の構想を文章化したものであるが、現在組織が拡大しその活動内容も多岐にわたるに及んで若干の説明を要するようになった。現在我々は根本にはこの趣旨を置いているが、ここに記されているその抽象的な表現では足らず具体化が必要とされている。すなわち海外移住を国内問題にとどめず国際的観点から考察する問題意識の在り方には変わりがないが、単に移住そのものの内的考察から外的考察にも同等の比重を置き、海外移住そのものを一義的に考察するグループと、その対象国を一義的に考察するグループとから構成されており、その総合点に連盟の本質は存在している。したがって我々の移住観は単に国際友愛精神に立脚しているだけではなく、その背景として、後進国開発理論と海外発展思想の統合という学問的根拠にもその基盤を置くものである点留意されたい。したがって我々がその活動手段のひとつとして用いるWORKも無報酬労働とはいいながら、いわゆる奉仕活動とは厳密に区分されなければならないものである。


(2)移住連盟の成立

 「連盟案内」によると、移住連盟は、先の設立趣意書を基に、次のような経緯で成立した。

 『昭和30年全国の海外関係のサークルのもとに、一通の書状が届けられた。それには「農村の二・三男対策は急務であるから我々学生層で、これに対して何等かの働きかけをする必要がある」また「希望を失った若人の目を海外に向かせるべく一大キャンペーンを起こそうではないか」と書かれていた。
 その年の6月11日、この呼びかけに答えて衆院第二議員会館に集まったものが30名、ここに日本学生海外移住連盟が結成された。これとともに東大を中心に国立大学によるラテンアメリカ市場開発を目的とする日本海外研究会結成の動きが見られたが、連盟員の了解工作のもとに一本化に成功し、装いも新たに発足することになった。』


(3)我々は移住をこう考える

 時代の推移と共に、「移住」という言葉を、わがクラブの名称に冠することの是非が、何度も議論や検討が行われて来たことは、記憶に新しいことである。その都度回帰して行ったのが、次に掲げる学移連の「我々は移住をこう考える」という文章ではなかっただろうか。
 この移住研活動史の第一次案には、このことは記載してなかったが、第5期委員長の秋葉裕嗣(昭和39年入学・生産機械)から、「あの文章を載せてもらわないと、私たちがやってきた事が全く埋もれてしまう。ぜひ記録しておいて欲しい」と、申し出があった。

※「連盟案内」に記載されていたので、それを転載しておく。

『我々は移住をこう考える
 「移住とは個人の意思により、自然、国民、社会に全幅の信頼を寄せる国へ生活の本拠を移し、創造的生産活動を求めて、自己の潜在能力をフロンティアに於いて最高度に発揮し、相手国の開発に寄与すると同時に民族間の融和を計り互恵的に個人の生活の安寧と幸福を得ひいては世界の平和と人類の福祉に貢献するものである。」』

 この文章は、昭和39年、学移連の秋田夏季合宿において、政府の移住審議会が明らかにした答申案を参考に、議論し、採択されたものである。
 「移住」が、従来から言われてきた「移民」と言う狭義の意味ではなく、もっと広い意味があり、移住研の活動推進に何等障害になるものではない、と言った議論のバックボーンであったと、記憶している。


(4)学移連規約第三条(目的)改正問題

 学移連「30周年記念誌」によると、『昭和30年後半から、諸々の問題が顕在化してきた。海外移住研究部、海外事情研究部、中南米研究部、そして語学研究部と、加盟しているサークルの名称・性向が多様化してしまい、学移連としての統一活動がとりにくくなり、いわゆる連盟離れ、幽霊サークルの増大などの問題が起こってきた。
 昭和41年から45年にかけて、「ABブロック化」「地域圏研究法」「規約第三条改正案提出」等がそれである。「ABブロック化」というのは、学移連の基盤であるサークルを研究内容で分類統合し、サークルの連盟離れを阻止しようと、提案された。(昭和41年3月)Aは移住研究ブロックで、移住を一義的にとらえて、その対象国について将来移住しようという姿勢を持つサークルによって構成される。統一テーマは、杉野先生(初代学移連顧問会会長・東京農業大学教授)の拓殖理論に基盤をおき、移住理念の研究。
 Bは海外研究ブロックで、移住はあくまで第二義的要素であり、海外諸国自体が研究対象となり、海外に対する興味・関心を満足させようという姿勢を持つサークルによって構成される。統一テーマは後進国開発。活動を推進していく過程で、サークルの連盟離れを解消する根本的な解決にはならず、ただサークルの名称によって二つのグループに分けただけという結果になってしまった。
 「地域圏研究法」は、先の「ABブロック化」の反省を踏まえて出されたもので、世界を地域ごとに分け、各サークルの特殊性を発揮し、移住に焦点をあて後進国を総合的に研究しようとするものであった。(昭和42年提唱)つまり、全国に散らばる各サークルの研究を本部の研究部がまとめるというものである。しかし、これはあまりにも難しく、数年が費やされたが、実質的な学移連の動きとはならなかった。
 この結果、連盟活動および連盟員の意識を研究によって統一しようとした二つの試みは挫折した。この一連の流れを眺めると、「ABブロック化」「地域圏研究法」は、常に「移住」を連盟でどのようにとらえるかの模索であったといえる。いかにして、海外研究会、ラテン・アメリカ研究会、語学研究会といったサークルを学移連の枠でとらえ、「移住」で統一しようかといったことである。
 しかし、そういった試みは功を得ず、先に掲げたようなサークルを「移住」に引きつけることはできず、学移連の目的を「移住」から外そうとする規約改正の動きが現れた。

『昭和35年制定の連盟規約第3条』

 第3条 本連盟は海外移住に関する理念の研究および実践を通じ、海外移住思想の啓蒙並びに海外移住の促進を図ることを目的とする。
 これに対し、昭和43年の第43回全国総会において、関西支部から改正案が提出された。関西支部の見解は、「移住の社会的意義の低下により、移住に関しての社会運動の必要性が減退した社会情勢において、学移連が『移住』を固守するのは、学移連の発展を阻害する要因となる。」というものであった。

『昭和43年関西支部提案の改正案』

 第3条 本連盟は低開発地域の開発に寄与し、そのための低開発地域研究の促進および実践を目的とする。
 この提案を受け、その後の合宿や支部の会合、総会などで議論を続け、昭和45年第57回全国総会において、次の通り提案、可決された。

『改正連盟規約第3条』

 第3条 本連盟は国際間における人間の移動について原因分析をなすとともに、広く海外問題を追求し、その中で正しい人間の移動のあり方を考察し実践することを目的とする。

 この新規約の意味するものは、「移住」の拡大解釈である。移住というものを、永住だけに限定せず、技術指導、海外駐在をも含ませたのである。10年も前に既に戦後の海外移住のピークを迎え、学移連を構成するサークルも技術指導による開発途上国への援助、国際関係の研究が主流をなしていた状況から見て、この新規約は必然的なものであったといえよう。

 さらに「連盟案内」には、この間の経緯を「規約第三条改正」として、次のように明記している。
『海外移住という言葉からは暗いイメージを内包した“永住”という人間の行為しか浮かんでこない。我々がいくらその単語を拡大して解釈しようとしても、社会一般に認められたこの単語の意味する範囲を超えることは非常なる困難を伴うといわねばならない。本連盟が過去、現在、未来にわたって追求し続けていかなければならぬものは、国際間における正しい人間の移動のあり方である。学生は常に真理を求めねばならぬ。先ず第一に、国際間に人間の移動がおきた場合、それの原因分析が必要である。その結論は、ある時代には過剰人口対策として出てくるであろうし、又、ある時代には人間疎外から来るものであろうし、又ある時代には人間の最適配分率による生産要素としての人間の移動と出るであろう。よって、その分析を通じて人間の移動を起こさしめる諸要因を除去しようとする行動を起こすものも出るであろう。具体的に言うなら、いわゆる棄民という現象を起こさしめ、又人間疎外という現象を起こさしめる動きである。しかし、本連盟としては、あくまでもこの運動に、総体として取り組むことは不可能と言わねばならぬ。それは、この様な否定的な要素を持って団結することは、新体制の確立といった肯定的な要求については何ら団結し得ないという見解からである。

 我々は国際間における人間の移動をその共通の追求対象とする。そこには当然、その時代に存在する海外諸事情の分析が必要である。これの正しい把握がなかったなら、我々の目的とするものも当然正しくは結論づけられることはないからである。この海外問題は、その置かれた時代にマッチしたものでなければならぬ。現在の我々を取り巻く海外問題は、富める国と貧しい国の格差がますます増大していくという現実を直視した上での問題でなければならぬ。
 よってこれらの諸問題追求の中から、正しい人間の移動のあり方が、導き出されるものと確信する。』
 学移連の文書からの引用が長くなったが、学生らしい、情熱に溢れた、議論が闘わされてきたことが、鮮やかに甦ってくる。
 学移連は、その目的を達成する事業の中心として、昭和35年(1960年)より南米各国に、10次(昭和44年時点)に渡り「南米学生実習調査団」を派遣し、「移住問題や低開発国問題を研究する」際の、「百聞は一見にしかず」という諺を実体験すべく、裸で現地に飛び込み、単なる視察などではなく、実際に原地人と労苦を共にし、彼らの歓喜、苦悩を直にその身体で受け止めて帰り、毎年多大な成果をあげてきました。

時代の変化と共に、派遣先も南米に限らず、カナダ等も加わり、「海外学生総合実習調査団」として、14次(昭和58年時点)にわたり、この派遣事業は続いて行きました。
 その間、学移連が所属する外務省の外郭団体であった「移住事業団」も、行政改革の一環として、「海外技術協力事業団(海外青年協力隊)」と統合され、昭和49年(1974年)に「国際協力事業団」に衣替えする等、変化を遂げてきました。そして平成5年(1993年)、この国際協力事業団内にあった移住部門も廃止されました。
 学移連は、これらの活動のほかに、全国合宿、全国総会等も開催し、加盟各大学との交流も盛んに行われてきました。